仙台 作並温泉 鷹泉閣 岩松旅館

岩松旅館の歴史 鷹の湯 温泉開湯今昔

作並温泉の伝説と戦乱に生きた岩松家。

行基の作並温泉「発見」伝説

作並温泉にはふたつの伝説があります。ひとつは行基菩薩による発見伝説です。

養老5年(721)、行基が奥州巡錫の折、仏法僧の鳴き声に導かれて広瀬川の谷底に下りてゆくと、渓流沿いに湯気がたなびき、温泉が滾々と湧き出ているのを発見し、村人たちに温泉の効能と湯浴みの方法を伝えた、との伝説が残されています。

源頼朝と「鷹の湯」伝説

もうひとつは、岩松旅館の「鷹泉閣」という屋号にまつわる伝説です。

文治5年(1189)の奥州合戦の折、この地に兵を休ませていた源頼朝が、飛鳥に矢を放ち、それを追って広瀬川の渓谷に降り立つと、河原から湯気が立ちのぼり、一羽の鷹が湯壺に全身を浸していました。

やがて、傷の癒えた鷹が雄々しく飛び去るのを見て、頼朝は「さては」と思い、自らも一浴したところ、軍旅の疲れがたちどころに癒やされました。兵たちも湯に浸からせたので軍勢は精気を蘇らせたということです。

これらふたつの故事からも、太古の昔より、作並の広瀬川のほとりには豊かなお湯が湧き出ていたことがわかります。このお湯は行基による発見から一千三百年という歳月を経てなお涸れることなく、現在は岩松旅館の「天然岩風呂」に姿を変えて、はるばるおいでくださるお客様の心身の疲れを癒やしております。

清和源氏の血を引く岩松家

ところで、奥州合戦の折、源頼朝には新田義兼という武将が随行していました。新田家は清和源氏の流れを汲む武門の名族で、代々新田荘(群馬県太田市)を治めていました。

嘉禄2年(1226)、足利将軍家の祖である足利義康の孫義純と、新田義兼の娘との間に生まれた時兼が、鎌倉幕府より新田荘岩松郷の地頭職に任じられました。これを機に、時兼は新田家から独立して「岩松時兼」と称するようになります。

戦乱に巻き込まれて関東を離れる

南北朝時代、岩松家の主な武将たちは、南朝の大将である新田義貞と袂を分かち、北朝について戦います。義貞の戦死によって南朝が力を弱め、北朝の足利尊氏が征夷大将軍に就任して室町幕府が成立すると、岩松氏が新田氏にかわって新田荘の惣領主と認められ、「新田岩松氏」と称するようになります。

明徳3年(1392)に南北朝の合一が成った後も、関東では上杉禅秀の乱、永享の乱、結城合戦と争いが絶えず、中央では応仁の乱が勃発して、時代は戦国の世に突入します。

応永23年(1416)の上杉禅秀の乱において、禅秀とともに蜂起した岩松満純は戦に敗れて斬首となり、岩松家は領地を没収され、一族は離散に追い込まれます。後に作並温泉を開湯することになる岩松家の先祖が関東を離れたのは、この頃と考えられます。

いつの世も、人の心と身体を癒し、作並の土地と人の幸せを願う、「元湯岩松」としての思い。

作並村の肝煎り、岩松の信条へ

江戸時代に入ると、作並における岩松家の初代とされる又右衛門(対馬掾信寿)が慶長より元和まで作並村の肝煎りを任じられます。以来、岩松家の代々の当主は作並村の肝煎りを務めることになります。

肝煎りとしての務めが、作並の土地や人への心づかいを形成し、代々に継がれる岩松の信条として、湯守、宿へと受け継がれることになりました。

作並と人の幸せを願う
「作並温泉開湯」への思い
~飢饉と疫病からの復興~

又右衛門より数えて11代目の喜惣治が、仙台藩主伊達斉村公に作並温泉の開湯を願い出たのは、寛政8年(1796)3月のことでした。

喜惣治が湯所を建てようとしたのは、「荒引(あれひき)」といって、耕作ができない荒れ地でした。相次ぐ飢饉によって疫病が蔓延して耕す人がおらず、土地が荒れたままになっていたようです。また、請願書に「効能試」という文字があるように、当時、湯治場は現代でいう病院の役割を果たしていました。

喜惣治は温泉を運営することで作並村を豊かにし、飢饉と疫病からの復興を願ったのでした。喜惣治の願いは聞き届けられ、大変な苦労の末に、8年という歳月を費やし、屋根付きの浴場や長屋、岩風呂へ下りてゆく7曲がり97段の階段(現在は88段)を造ったのです。

永湯守任命と「鷹の湯」の銘

岩松旅館3代目館主の喜蔵は温厚にして純朴、好んで施しを行いました。

安政5年(1858)には、仙台藩に金百両を献じて「永湯守」(温泉の管理責任者)に任じられ、名字を名乗り、刀を佩(は)き、上下服の着用が認められています。

慶応元年(1865)には、仙台藩主伊達慶邦公の母延寿院が療治に二度訪れて大いに効能があったため、慶邦公より「鷹の湯」の銘を授けられました。岩松旅館にはこの時下賜された銘文が今も残されています。

江戸時代は間もなく終わりを迎えますが、その後も岩松家は代々作並の湯を守り続けることになります。